史跡探訪部 第6回 6月26日

2025年6月26日

第6回史跡探訪
行き先 高瀬川一之舟入・瑞泉寺・檀王法林          
寺・要法寺
講 師 (株)らくたび 田中昭美先生
《高瀬川一之船入》中京区木屋町二条下がる
伏見にある三栖浜から積み荷を満載し、人力で引き上げてきた高瀬船がこの浜で荷を陸揚げし、船を方向転換させた。
《瑞泉寺》中京区木屋町三条下がる
文禄4(1595)年8月2日、京の三条大橋西南の河原で、豊臣秀次の正室の一の台を始として側室、若君4名、姫君1名、侍女、乳母なら39名が豊臣秀吉の名により斬首された。
すべての遺骸が刑場に掘られた大穴に投げ込まれ大きな塚が築かれその上に秀次の首が納められた石櫃を据え、三条大橋を渡る人々への見せしめとした。
現在の瑞泉寺の本堂はその塚の位置に建立されている。400年にわたり秀次事件により死罪となった秀次と連座した一族・家臣の菩提を供養している。
《檀王法林寺》左京区三条通り川端東入る「だんのうさん」で親しまれている。 
正式名称は「朝陽山栴檀王院無上法林寺」(浄土宗)といい、天台宗の寺院蓮華蔵院の僧、望西楼了恵上人道光が文永5(1268)年これを浄土宗悟真寺と改め、浄土宗の念仏道場として興隆させた。その後悟真寺は火災で焼失し廃絶。その緑地に慶長16(1661)年袋中上人によって「檀王法林寺」が建立された。
《要法寺》左京区法皇子町
多宝富士山と号する日蓮宗の本山。正式には本山要法寺と称する。本尊は十界大曼荼羅。
日尊を開山とし法華宗上行院がその前身。

史跡探訪部 第5回 6月12日

第5回史跡探訪

2025年6月12日
行き先 下御霊神社→革堂行願寺→藤原定家京極址→大福寺
講 師 (株)らくたび 山村純也先生
《下御霊神社》中京区寺町丸太町下がる
桓武天皇の時代は災害や、疫病の流行が繰り返し起こった不安な時代で、当時の人々はその原因を貴人の怨霊がもたらすものと考え、御霊としてお祀りをし、慰めることで災いから守ろうと御霊会が盛んに行われた。貞観5(863)年の神泉苑御霊会の祭神を下出雲路の地に祀ったのが、下御霊神社の創起とされる。後に新町出水に移され、天正18(1590)年現在地に遷座した。
《革堂行願寺》中京区寺町竹屋町上がる
天台宗の寺院で山号は霊ゆう山。本尊は千手観音。一千年の歴史をもつお寺で、創建当初は一条通りにあり、戦火や火災でいくたびも焼け、場所を替えつつも、人々の熱烈な信仰によってつねに都の中心部に再建されました。現在も西国観音霊場の第19番札所として全国に知られる名刹です
《大福寺》中京区麩屋町通二条上がる
推古天皇の時代(593~628)年に大和国に聖徳太子により創建され、天皇の菩提寺であったことから、平安時代の初めに、勅使により京都の現在地に移され、七堂伽藍を有しました。本尊の菩提薬師如来座像は聖徳太子の作です。

史跡探訪部 第4回 5月22日

2025年5月22日木曜日

第4回史跡探訪
北野東向観音寺・北野天満宮・大報恩寺
講師 (株)らくたび 田中昭美先生
《北東向観音寺》
寺伝によると、延暦25(806)年に桓武天皇の勅を奉じて藤原小黒麿らが皇城鎮護のために建立され、当初は朝日寺と呼ばれ、北野天満宮に先行する寺院であった。
《北野天満宮》
菅原道真公を主祭神とする市内屈指の神社で、天神信仰では大宰府天満宮とともに総社的地位にある。 
《大報恩寺(千本釈迦堂)》
鎌倉時代の初期、承久3(1221)年藤原秀衡の孫である、求法上人義空によって創建された。本堂は安貞元(12:27)年の上棟である。
この本堂は応仁・文明の乱などの度重なる災害にも焼けることなく残り、洛中現存最古の木造建造物で国宝。新たに木造六観音菩薩像・木造地蔵菩薩立像が国宝指定になった。
「おかめの物語」や「大根炊き」ても有名である

史跡探訪部 第3回 5月15日

2025年5月15日木曜日

第3回史跡探訪
龍安寺・住吉大伴神社・等持院・六請寺
講師 (株)らくたび 山村純也先生
《龍安寺》右京区龍安寺御陵下町13
臨済宗妙心寺派に属し、大雲山と号し禅苑の名刹である。
開基は細川勝元、開山は義天玄承和尚である。有名な枯山水「方丈庭園」は古都京都の文化財として世界遺産に登録されている。
《住吉大伴神社》右京区龍安寺住吉町1
創建年は不明だが、平安遷都に際し大伴氏が大和国から京の都に移った際、その氏神として大伴神社が祀られたとされる。
《等持院》北区等持院北町63
臨済宗天龍寺派の寺院で萬年山と号する。足利尊氏等塁代の菩提寺として知られる。
暦応4(1341)年、足利尊氏が天龍寺の夢想国師を開山に迎えて衣笠山の南麓に創建されたのがこのように寺院である。足利十五代・230年余りの歴史を語る貴重な文化財が保存されている。
《六請神社》北区等持院中町53
古来、衣笠山麓に鎮座していたので衣笠御霊とも衣笠岳御霊とも呼ばれ、その山に鎮まる先人の霊を合わせ祀ったことに始める。

史跡探訪部 第2回 5月8日

2025年5月8日木曜日

第2回史跡探訪
上善寺・浄土院・石像寺(釘抜き地蔵)・引接寺(千本ゑんま堂)
講師 (株)らくたび 山村純也先生
《上善寺》上京区今出川通千本西入る
千松山(せんしょうざん)と号する天台真盛宗の寺院。寺伝によれば貞観5(863)年、僧円仁により天台密教の道場として千本今出川に創建された。文禄3(1594)年、寺域を鞍馬口に移し、これが「六地蔵の上善寺(浄土宗)」として現存する。その後現在地に元上善寺として再建され現在に至る。 
《浄土院》今出川千本西入る南上善寺町
「湯たく山茶くれん寺」と呼ばれ、宗引を開基とする浄土宗の尼寺である。
秀吉が北野大茶会の途次、この寺に立ち寄り茶を所望した所、住持が茶湯に未熟なため白湯ばかり供するので、秀吉はますます茶を要求した。そのため湯沢山・茶くれん寺と異名がつけられた
《石像寺(しゃくぞうじ)》通称:釘抜地蔵
寺伝では、空海により弘仁10(819)年に創建された家隆山光明遍照石寺。当初は真言宗寺院であったが鎌倉時代に浄土宗に改宗。
地蔵堂の本尊は、空海が唐から持ち帰った石を刻んだとされている地蔵菩薩である。この地蔵は苦しみを抜き取るということから苦抜地蔵か呼ばれ、それがなまって釘抜地蔵と呼ばれるようになった。
《引接寺(いんじょうじ)》上京区閻魔町34
高野山真言宗。正式名は光明山歓喜院引接寺。一般に千本ゑんま堂の名で親しまれている。

2025年 第1回 5月1日

2025年5月1日木曜日

第1回史跡探訪
上賀茂神社・楢の小川・社家の町並み・大田神社
講師 (株)らくたび 田中昭美先生
《上賀茂神社》北区上賀茂本山339
正式名は賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)といい、左京区にある賀茂御祖(かもみおや)神社を下鴨神社というのに対し上賀茂神社という。社伝によると神武天皇の御代に本殿の背後に位置する神山に祭神・賀茂別雷命が降臨したのが起源といわれる。
《楢の小川》
上賀茂神社本殿の東側から流れ出る御物忌(おものい)川と西側を流れる御手洗川が橋殿の北で合流して「ならの小川」となり!末は明神川となる川の名はこの流域に鎮座する奈良神社に由来する
《社家の町並み》
社家の町並みは、代々上賀茂神社に仕えた神宮の屋敷が明神川に沿って並ぶ地区で石垣や土塀、石橋か続く。江戸時代は300軒を越えたが現在では30軒程度ななっている。
《大田神社》
社家町の東北、上賀茂神社から東へ500mほと行った大田山の山裾にある上賀茂神社の境外摂社である。祭神は雨鈿女命(あめのうずめみこと)とも猿田彦命ともいわれている。
参道東側には2千平方メートルの沼沢池が残り「大田ノ沢」と呼ばれカキツバタの名所である

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